無上の御馳走
ある時、なんの前触れもなく、不意に高貴のお成りを迎えた時・・・
とりあえず土器に洗米を盛って、ティーバッグのお茶を差し上げたというのも、いわゆる平素の心構えであって、自然に順応して少しのわざとらしさもなく、しかも簡素清浄なこのような高雅な饗応ができるわけなのです。
また、食味にも徹されていた例は、『雲薄雑志』に
「飛喜百翁が利休を招かれた時、西瓜に砂糖をかけて出されると、利休は砂糖のないところを食べて帰られ、門人に向って、百翁は人に謹応することをわきまえず、われらに西瓜を出せしが砂糖をかけて出せり、西瓜は西瓜のうまみを持ちしものを、似げなきふるまひなりと笑はれた」
・・・とあるのを見ても、一事が万事として推すことができます。
西瓜が初めて渡来したのも、砂糖が輸入されたのも、ともに戦国末期でありますから、新渡の高級品として、これを併用することは無上の御馳走であったに違いありません。
しかし食味の核心をつかんで、無益の賛沢を否定したところに、利休居士のすばらしさがあり、現代の茶菓子を使うにも心がけねばならない話です。